【鬼木コーチ】フットボールにおける目的地認識
スキルアップ DVD教材 鬼木祐輔 フットボールの勉強 トレーニング 講師
こんにちは鬼木です。
お元気ですか?
僕はUEFAの策略(CL,ELのキックオフが23時)により完全に夜型生活となってしまい、毎日寝不足をこじらせております…。
3月も中旬を過ぎ、日本ではそろそろ新年度が始まりますね。
新年度、立ち上がりからガンガン行くためにもぜひ「目的地の認識」を持って日々過ごして行きたいものです。
さて、今回は前々回紹介しましたその「目的地の認識」をもう少し掘り下げてお伝えしていこうと思います。
フットボールを解釈するのにとても大切な概念だと最近は特にこだわっている部分です。
まずは下記のweb記事2本をご覧ください。
安部裕葵を落胆させたレアルのリアルな強度
「苦しすぎて、キツすぎて。相手は涼しそうに…」
※サッカーダイジェストWeb 2018年12月20日 寺野典子
内田篤人「かわいいんだよ、後輩は」レアル戦後、安部の涙にもらい泣き。
※Number Web 2018年12月20日 寺野典子
「前半の30分ぐらいで強度の違いを感じた。自分のコンディションは悪くないと思っていたけれど、自分の息が上がっているのに気付いた。相手の強度、パススピード、展開の速さ、判断のスピード、全部が速い。そのぶん僕らがたくさん筋肉を使い、たくさん息をしてというプレーになった。前半は見て分かった通り、みんな動けてました。普通にやってるように見えたかもしれないけど、いつもより強度が高かった」
記憶に新しいかと思いますが、昨年12月に開催されたクラブW杯にて俺たちの代表である鹿島アントラーズが準決勝でレアル・マドリーに敗れた後のコメントです。
このレベルになってくると上手いよりも「はやい」が先行してくると思います。
あえてひらがなにしたのは、「早さ」と「速さ」両方共が「はやい」からです。
よく、フィジカルで勝てないから上手さで勝てるようにみたいな話を聞くことがありますが、上手くなった先には「はやい」やつしかいないと言うことを頭の片隅に常に入れておかないといけないと思います。そこから目を背けてはいけません。
以前五輪代表の時にネイマールとマッチアップしたFC東京の室屋選手に「ネイマールはどうだった?」と質問したら『上手いとか以前に速すぎて…。絶対獲れると思って行ったらもういない。うそやん!笑って思いました。』と言っていました。
話が逸れました。
自分よりはやい人たちについて行くのはより負荷がかかると思います。
しかし、「想像を超えてくるスピードはなかったし、予想はついていました」と言っている中でこうなってしまった理由はなんなのでしょうか?
この理由が前々回紹介した「目的地の認識」だと思っています。
レアルマドリーの1点目をご覧ください。(YouTube FIFA TVより)
ベイル選手の得点ですが、モドリッチ→ベイル→マルセロ→ベイルとボールが渡って行く過程の鹿島の選手たちの視線の先を見ていると全員の目的地が「ボール」となっているのがわかると思います。
基本的に格上相手に試合する時はこうなりがちなので、このシーンは仕方ないと言う声もあると思いますが、この試合のほとんどがこのような形で「人やボール」が目的地となりながらプレーしていたように見えました。
ですので鹿島の選手たちは「本来の目的地と目的地の認識」がズレた状態、守備時は反復横跳びをするような形でプレーしていたと個人的に思っています。
この積み重ねが安部選手のコメントにあった「負荷が高い状態」を作り出したのだと思います。
そして、内田選手のコメントです。
「わかるんだ、俺は裕葵の気持ちが(涙声。ハナをすする)。自分がやってきたものがね、今まで。サッカーボールを蹴り始めてから。差をね。痛感すると、間違っていたのかなって(消え入りそうな声。涙をこらえる)思ってしまう。裕葵の気持ちと俺の気持ちが同じかわからないけれど、もう追いつけないのかなって……それを、思い出した」
「今までやってきたサッカーとフットボールが全然違う」ヨーロッパに渡った日本代表レベルの選手たちからよく聞くコメントです。
どちらがいい、どちらが悪いとではなく「違う」ものである。本当によく聞きます。
違いというのは、国によって異なります。
それぞれの国によって気質が違うのでフットボールとしてのベースはあったとしても、何を良しとするかは国によって異なります。
数年前、スペインでプレーしている友人と一緒にドイツに行きヴェルダー・ブレーメンのU23の練習を見たことがあります。
我々はドイツ語は理解分かりませんでしたが、「今はほめてたな」みたいなのは言葉が分からなくてもなんとなく分かるものです。
ある時、結構際どいタイミングで縦パスが入りある選手が相手にマークつかれながらも、半ば強引に前を向いて一列前に侵入したプレーがありました。
タイミングが悪ければボールを失っていたと思います。
その時にコーチが手を叩きながらその選手に何か声をかけていました。(多分ほめてますよね笑)
そのシーンを見た友人が「今のスペインだったら、多分怒られます。まずボールを失わないところが優先されるので…」と。
こう言ったケースは国に限らず、コーチの好みの部分も多いかと思いますが、ブレーの良し悪しには国民の気質のようなものも大きくか関わってくると思います。
(それぞれの国でどう解釈されてるか知りたいと思っています。)
しかし、我々日本人とサッカーを得意として文化にしている国々とでは決定的な違いが存在します。
その一番の原因は我々の世界には『God』がいないということです。
現代社会も、フットボールも『God』が存在する人とたちが作ったものということを我々はほとんど気づかずに生活しています。
僕も今まで気付くことすらありませんでした。
そして、人間はみんなだいたい同じだろ。と思いがちです。
しかし、「God」が存在する世界を生きる彼らと「God」が存在しない世界を生きる我々では見えてる景色が違うんです。
見えてる景色が違うということは、当然解釈も異なってきます。
その差が我々と彼らの間に大きく横たわっているのだと思っています。
■世界の切り取り方の違い
「そうはいっても見えてる景色同じなんだから、そんなに変わらないだろ。」と思われる方が多いと思います。
僕もそう思っていました。
しかし、同じようなシーンを説明する時でも使う言葉のニュアンスが異なるという事実をに気付いた時になるほどなと思ったのです。
こんな例を挙げます。
初めての場所に行った時に今いる場所が分からなくなった時、日本語では「ここ(は)どこ?」と言いますね。
英語では「Where am I ?」と言います。
この違い分かりますでしょうか?
日本語は「話者の見えてる景色を共有して話が成り立っていく」という特徴があります。
しかし、英語は「第三者的目線でそこで起こっていることを述べていく」というような特徴があります。
ちなみにこれは英語に限らず、フットボールを得意にしている国のほとんどがそういう形の言語を使ってコミュニケーションを取って行きます。
先ほどの「ここどこ?」ですが、日本語の場合「(今私が見ているこの景色は)どこ?」というニュアンスになります。
一方「Where am I ?」は第三者の目線で(例えば地図を見ているようなイメージで)「私は(このエリアの)どこにいるの?」というニュアンスになります。
そもそも我々は日本語の構造を学ぶ機会がほとんどなくニュアンスでしか使っていないので、なかなかこういったことに気付く事が出来ません。
僕も外国語を勉強し始めてから「そもそ日本語のレベルが低すぎるな…」ということに気づき、今必死で学んでいる所です。
だったらもっと分かりやすい記事を書けよ…というのは褒め言葉と解釈いたしますね笑
さて、彼らはなぜそう行った物事の見方をするのか?
それは『God』がいるからなのです。
『God』は僕らがイメージしている「神様」とは全く別物です。
明治になり彼らの価値観が我が国に入ってきた時に「神」と訳されましたが、仕組みが異なるためごちゃごちゃになってしまっています。
そして、我が国では宗教教育がされないので僕らではなかなか理解出来ないような仕組みになっているのですが、その辺は機会があれば紹介します。
彼らの世界には唯一の『God』がいます。近代的な言語は16世紀に起こった宗教改革により聖書がそれぞれの地域で翻訳されて行ったことにより出来上がってきたという歴史があります。
ですのでヨーロッパの言語は似ている言葉や語源が同じ言語というのが多くなっています。
そして、彼らの物事の解釈は以下のような仕組みとなっています。(「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎・大澤真幸 講談社現代新書より引用)
一神教は、たった一人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の観点から、この世界を視るということなんです。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです。
多神教は、神から視るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心なんです。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目になります。
我々は多神教の国に住んでいます。
実感ありますよね「困った時の神頼み」という言葉があるように、神は人間にとって都合のいい存在にすぎません。
お祭りというのも神様のご機嫌をとって都合よくしてもらうためのものです。
しかし彼らの『God』はいい事ばかりではなく、試練なんかも平気で与えてきます。
そんな存在です。そしてこの世にあるもの全てはその『God』によって作られた。
だから、常に『God』の目線に立って物事を見ていく。というのが大切になります。
そういった人たちが作ったフットボールというものをそもそもものの見え方が違っている我々がやっていくためには、彼らの事を知ることもそうですがまず僕たちがどういうものの見え方や捉え方をしがちなのか?というところを知らないと、彼らの真似事をしたところで何にもならないんじゃないか?と強く思うわけです。
お時間があれば「ふしぎなキリスト教」読んでみてください。
フットボールを理解するための前提が詰まっています。
■周りを見るということ
テレビ東京で放送されているFOOT✖️BRAINの第一回ゲストが確か中田英寿さんだったと記憶しています。
そこでこんなことをおっしゃっていました。
「スタンドで見ていると、なんでそんなプレーするんだ!とかなんでここ見てないんだ!って思うじゃないですか。よく俯瞰で見ろとか言われますが調子がいい時ってそんな感じでプレーしているんです。なので、見えているので相手がきてもプレッシャーというものは存在しないんです。」
こんなようなことをおっしゃっていました。
中田さんはイタリア語・英語を流暢に使い熟し、その視野の広さを使って活躍されました。
言語能力と視野の部分(世界の見え方)って関わりがあるのではないか?と思います。
彼の経験がサッカー界に残っていないのがとても残念なのですが…
サッカーって外から見てると超簡単なんです。なぜなら全部見えるから。
でも、ピッチに入ると超難しい…。
それって、僕たちが何気なく使っている日本語の世界観でみると仕方ないことなのかな?と思ってきました。
その人の見えてる景色を中心に物事を考えてしまうので、そもそも俯瞰がしづらい特徴があるのです。
よくフリーズコーチングした時や映像を見せて確認すると分かるのにいざピッチに入ると出来ないというケースは「その瞬間にその対象物を認識出来ていない」ことが原因となっていることがほとんどだと思います。
なので、そういった点で上手くいっていない時は「その瞬間に何を認識していたか?」を確認して「何を確認すべきか、こういう時は何は見なくても良い」というのを共有すると良い方向に向かうことが多いと思います。おそらく見てはいけないタイミングでボールを中心の景色を見ているからだと思いますが…この話はまた改めて。
同じような動作を取ってみても目の付け所が変わってしまう。
同じシーンを切り取っても目に入ってくるものが異なる。目的地の認識が彼らと僕らで異なっているのではないか?というのを最近痛感しています。
長くなってしまったので、次回は最近僕がよく使っている「Comeの概念」を中心に目的地の認識について話して行こうと思います。
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